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2026/02/19 22:51
先ず、服と飯はリンクするのかしないのか、そのリンクとはいったい何なのか。
私の時代をエディットしながら自分の答えを見つけてみよう。
幼少期の記憶は薄いが、静岡伊勢丹系子供服、コムサイズム、組曲などを着せられていた。
いや、わりと気に入っていたから着ていた。
飯は特にあれを食べてはダメみたいな制限はなかった。
が、母の味というものだけは今も覚えていない。
小学4.5年生の頃、サッカーの練習から帰ると引越しの準備があらかた終わって、母親が突然いなくなった。
Xデーは計画通りだったぽい。
自分だけが現実を受け入れず、目を背けていただけなのかもしれない。
その日から祖父母の家に住むことになり、高校卒業まで食事を作ってくれた祖母の味が母の味。
まだ世間的に離婚というものに触れちゃいけないみたいな空気感。
今まで通りにやり過ごさないとという気持ちからか、祖母弁当だとバレる!
みたいな祖母に失礼申し訳ないが自分で弁当作りをはじめた。
弁当作りといっても詰めるだけだが、それ風を装っていた。
高校にまでいくと同じ境遇や下宿生なんかもいて何も思わなくなった。
小中学校の給食なし、弁当の日は朝から忙しかった。
高校は毎日弁当だったから大変だった。
小中高サッカーの試合がある日はおにぎりとコンビニでほぼやり過ごしていた。
その当時から今もコンビニリスペクト。
普段靴はナイキコルテッツ、いくら小学生だからと言ってもお金はかかる。
サッカーにもお金がかかる。スパイクは常に2.3足をローテーション。
モチロン履き潰すまで練習して新しいのをお願いして追加する。
15歳からは支払いが自分に変わっただけで、スパイクがスニーカーに変わっただけか。
小3のときからエスパルスのスクールにも通わせてもらってたけど、サッカーを上手くなりたい気持ちもモチロン、人より良いウェア着たいみたいな気持ちはそこからかも。
学年で1番はやい人だった1500m走とアンクルソックス履き登校した中学時代。
イキってポイントのスパイクを履くころには友達と街に服を買いに行けるようになった。
高校に入るとすぐ近所の陳系四川飯店の厨房でバイトした。
通学の電車定期代と服代を稼ぐために。
小2から続けたサッカーは社会人の県2部のチームに誘ってもらい学校以外はほぼ社会人みたいになっていた。
陳系厨房がとにかくキツくて、辞めるころには目で盗んだ調理法を家で実践して食っていた。
が、火力と基本スープが足りなかった。
SNSも無ければ、新作が新作じゃないタイムラグの雑誌情報しかない。
街の服屋にすぐ行かないと欲しいものが買えない裏原バブル時代真っ只中。
学校帰りに入荷を確認しに行く為にも街中のバイトが必要でドトールでも働きはじめた。
飯は自分の賄いサンドしか作らせてもらえなかったが、他の仕事は一通り教えてもらった。
が、坊主で出勤したらNGだったらしく怒られた。
学校帰りのドトールバイト前に服屋古着屋チェックが日課で雑誌以外の情報も増えた。
学校、バイト、学校、バイト、週2サッカーの高校生活。
学校と四川がハード、ドトールがポップ、サッカーは大人の勉強。
そんな高校3年間で300万くらい所得はあったけど残ったのは服と調理技術と少しの貯金だけだった。。。
次回、楽々上京アデランス社会人編へ続く。
